アメリカン・ビューティと唾液

朝起きて、ご飯を食べて、映画を見に行った。 女の子と一緒だった。

午前中の映画館が好きだ。 朝から映画を見るなんて、いかにも休日っぽい。 それに断然空いている。 映画を見るのに何十分も並ぶなんて、馬鹿げている。 東京なんて馬鹿げている。 と、地方都市出身の僕は思う。

さて。 「アメリカンビューティー」を見たのだけれど、僕はこの映画を見ていて、また少し大人になった自分を発見してしまった。 それも映画の筋と全然関係のないところで。 そして台所の流し台と冷蔵庫の隙間くらい、どうでもいいところで。
忘れ去られたゴキブリホイホイ。 その横のポカリスエットのキャップ。 そんな訳だから、誰も僕の話を解ってくれないかもしれない。 でも勇気をだして僕はここで話してみる。 この勇気が2週間出なかった。

女の子と一緒に映画に行くとする。 すると、アメリカの映画には、女性が裸になるシーンが当然出てくる。 ごく自然に、当たり前の様に出てくる。 隣には知っている女の子がいて、僕はアメリカンヌの裸なんて全然見たくないんだけれど、スクリーンの中の彼女はもちろん僕のことなどお構いなしに、ハラリシャラリと、30秒くらいかけてゆっくと服を脱いでいく。

この30秒間が大いに問題だ。 僕は、こともあろうにこの30秒の間に、ものすごく高い確率で「ツバ」を飲みこみたくなる。 しかし、上映中最も館内が静かになるこの瞬間につばを飲みこむと、その「ゴクリ」という音が周囲に響き渡ってしまう。 そして隣の女の子にその音を聞かれて、彼女に気まずい思いをさせてしまう。 そんな恐怖を僕はいつも感じる。 だから僕はアメリカンヌのシーンが終わって、ほとぼりが冷めるまでしばらく、口の中を唾液でいっぱいにして我慢していなければいけない。 それはとても辛い。 悔しくもある。
僕の唾液はセクシーなアメリカンヌによって、もたらされた物なのだろうか。 それとも、唾液のことばかり考えているから唾液が出てくるのだろうか? 果たして僕は普段、何秒に一回のペースで唾液を飲みこんでいるのだろうか?

しかし今回はそんな心配は杞憂に終わった。 ある意味で僕は進化したのかもしれない。 とにかく学習はしていたようだ。 映画を見ていて、「その30秒間」がやってきそうな気配をか感じると、僕はあらかじめ口の中の唾液を意識的に飲み込んだ。 アメリカンヌのセクシー度が頂点に達する遥か前のタイミングで。 これで僕は不毛な恐怖に襲われることはなくなったわけだ。 でも、しかし、やっぱりどこか悲しい。 「上手く生きて行く」とは、どこか悲しい。

playback  いちょう、ひらり。 2000.06.06

ZIPPO

今、僕が使っているライターは、昔どこかの誰かが使っていたライターだ。

拾ったわけではないが、何かしらの縁で今は僕の手元にある。 金色のZIPPOのライターで、蓋を開け閉めする部分のメッキが剥げかけていて、ずいぶん年季が感じられる。 デザインは抽象的な草と蔓の模様で、限定品をあらわすロットナンバーが刻まれている。 僕のナンバーは0065だ。 限定品なのだから、何かを記念したりしているのだろうが、何を記念しているのかは分からない。 ただ、「The only zippo in the world.」と書かれている 。
ところで、どうしてZIPPOのライターには、あまりにも意味の無い文がいつも刻まれているのだろう。 僕が高校生のときに買ったZIPPOのライターには、「Light in your life」と刻まれていた。 その単純さにZIPPOの永遠性を感じる、と言えなくもないが。

このライターは、煙草を吸わない友達から貰ったもので、以前の所有者のことは何も聞いていないのだが、何年間も使い込まれた感じが僕は気に入っている。 僕は「使い込まれた感じ」が好きだ。 ジーパンやTシャツは、色褪せてところどころ破れているくらいがいい。 買ったばかりのジーパンを、わざと汚したりする。 「自分のもの」になっていく様子が好きなのだ。 なかなか「自分のもの」にならないときは、無理にでも自分の染みを付ける。 ギターのヘッドをガスコンロで焦がしてみたりする。 それは、小学生が学校の机にコンパスの先で自分の名前やお気に入りのイラストを刻み付ける感覚だ。 愛着は心地よい。
ところがこのライターの場合は状況が違ってくる。 この金メッキの剥げ加減は、自分ではなく以前の所有者の愛着と繋がっているのだ。

数年前の僕だったら、このライターを見せられても、「こんな古びたライターいらないよ。どうせだったら自分で新しいZIPPOを買うよ」と言っていただろう。 でも今は違う。 「どこの誰だか知らないけれど、その人の元で数年を過ごして僕の手元にやってきた」というシチュエーションに心惹かれる。 そして僕は、少しだけ自分に対する愛着を捨て、「誰でもない人」になった気がする。 他人がかつて愛着を持っていたものを持っていると、なんだか「自分」が少し薄くなるような気がするのだ。
それは神社のお守りを肌身離さず持つことで、自分ではない何かの力を得ようとすることに似ているのかもしれない。

たとえば駅前で男が二人殴り合いの喧嘩をしていたとする。 僕はその間に割って入って喧嘩を止めようとする。 すると当然彼らは言うだろう。
「お前、誰だよ」
以前の僕いつもならそこで、たじろいでしまうだろう。 実際に以前そういうことが2回くらいあった。 全然知らない人の喧嘩を止めに入ったのだが、「お前誰だよ」と決まり文句を言われた瞬間、「事情も知らないのに大それたことをしてしまった」と、僕の心は一瞬でくじけてしまうのだ。
でも今僕のポケットには、知らない誰かによって使い古された金メッキのライターがある。 「誰でもねぇよ」 と今なら言える気がする。 ZIPPOの力によって、勢いで喧嘩になってしまったはいいが、殴りあうまでには至らず、振り上げた拳を下ろすきっかけを探していた二人に平和が訪れるのだ。

ZIPPOのライターは、男のロマンだ。

playback  いちょう、ひらり。 2000.05.24