微熱

前の晩から様子がおかしかったのだが、朝目を覚ますと扁桃腺がぷっくりとと腫れていた。 喉が痛くて唾を飲み込むことも出来ず、耳と歯茎と頭がズキズキと痛んだ。
とりあえず仕事場に電話を入れる。「病院に寄るので少し遅れます」

今年の4月にこの街にやってきて、病院に行くのは初めてだ。 駅に行く途中にある病院は内科の病院だっただろうか、と思いながら家を出る。 遅刻の電話は入れてあるので、ゆっくりと歩く。 穏やかな火曜日だ。 世界がいつもよりゆっくりと動いているように感じられる。 それは微熱のせいだろうか。
毎朝通る道なのに、ほんの少し太陽の位置が高くなっただけで、全く違った雰囲気がする。 この平和さ加減は何なのだろう?

目当ての病院に着くと、看板には「内科・精神科」と掲げられている。 やや不安な気持ちで扉を開き、受付に受診票を書いて出す。
しばらくして受付の女性に名前を呼ばれる。
「今日はどうなさいましたか?」
「喉が腫れちゃったんですけど」
「そうですか、風邪ですか。。」
すると女性の後ろから男に人がやって来る。
「すいません、うちは精神科専門なんですけど」

待合室の雰囲気が何かおかしかったんだよなぁ、と思いながら、扉を開けて外に出る。 理不尽な気がしないでもないが、それよりも何だか可笑しくてしょうがない。 これも微熱のせいだろうか。

男の人に教えてもらった近くの内科医を訪ね、抗生剤と鎮痛剤と胃薬をもらう。 コンビニで栄養ドリンクを買い、線路の脇で薬といっしょに飲み干す。
空はあくまで高く青く澄んでいる。 今日は遅刻日和だな、と思いながら再び歩き出す。 小学生の頃と変わらない。 風邪を引くと、なぜかワクワクしてしまう。

playback  いちょう、ひらり。 2000.11.28

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蝉坂

家に近くに「蝉坂」という名前の坂がある。 名前が付いているだけあって、なかなか勾配がきつく長い、立派な坂だ。 由来を記す北区教育委員会の案内文も立っていて、そこには鎌倉時代と江戸時代の逸話が書かれている。 坂を登る時、右手に石垣がそびえ、その上に神社が建てられている。

ところで僕は勝手にこの坂のことを「ミミズ坂」と呼んでいる。 夏に雨が降ると、神社の石垣の隙間から何千何万というミミズが坂道に這い出てくるからだ。 「何千何万」というのは決して誇張ではなくて、雨の日にそこを歩く人は、みんな自分の足元を見て歩いている。 注意しないとミミズを踏み潰さないこと無しには歩けないのだ。 恐ろしいことに、僕は病院のバイトの帰り道いつもこの坂を通るのだが、その坂を通るときはいつも夜だったので、雨の日にミミズが大量発生していることに気づくまで引っ越してから半年かかった。 きっとそれまでに何十匹ものミミズを踏み潰していたのだろう。 南無。

今朝はこの坂を通って仕事に向かった。 天気は快晴で、ミミズの心配はない。 急ぎ足で人々が僕を追い越し、通り過ぎていく。 頭の上に、神社のイチョウの木とクスノキの枝が張り出している。 歩道には、たくさんの黄色い落ち葉が、人が通る二列分の道を残して積もっている。 静かな朝の空気を、落ち葉が踏まれた時の「シャク、シャクッ」という音が満たす。 手にとって確かめられるほど、秋の存在が感じられる。 僕は大きく息を吸い込み、澄んだ淡い空の青を眺め、イチョウの木を眺め、落ち葉を踏み潰して歩く。 そして周囲の人々の顔を眺める。 あまりに日常的な表情をした人々を見て、僕は少し悲しくなる。 彼らは毎日この道を通って会社や学校に向かうのだ。 自分の感じているものの一つ一つを彼らに教えたくなる。 今日は特別な日なんだ。 でももちろんそんなことは出来ない。 ウォークマンを耳にした男と擦れ違う。 僕は気を取り直して、もう一度深く息を吸い込む。

ところで、誰が何と言おうとも、東京はまだ秋だ。

playback  いちょう、ひらり。 2000.11.25

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