今、僕が使っているライターは、昔どこかの誰かが使っていたライターだ。
拾ったわけではないが、何かしらの縁で今は僕の手元にある。 金色のZIPPOのライターで、蓋を開け閉めする部分のメッキが剥げかけていて、ずいぶん年季が感じられる。 デザインは抽象的な草と蔓の模様で、限定品をあらわすロットナンバーが刻まれている。 僕のナンバーは0065だ。 限定品なのだから、何かを記念したりしているのだろうが、何を記念しているのかは分からない。 ただ、「The only zippo in the world.」と書かれている 。
ところで、どうしてZIPPOのライターには、あまりにも意味の無い文がいつも刻まれているのだろう。 僕が高校生のときに買ったZIPPOのライターには、「Light in your life」と刻まれていた。 その単純さにZIPPOの永遠性を感じる、と言えなくもないが。
このライターは、煙草を吸わない友達から貰ったもので、以前の所有者のことは何も聞いていないのだが、何年間も使い込まれた感じが僕は気に入っている。 僕は「使い込まれた感じ」が好きだ。 ジーパンやTシャツは、色褪せてところどころ破れているくらいがいい。 買ったばかりのジーパンを、わざと汚したりする。 「自分のもの」になっていく様子が好きなのだ。 なかなか「自分のもの」にならないときは、無理にでも自分の染みを付ける。 ギターのヘッドをガスコンロで焦がしてみたりする。 それは、小学生が学校の机にコンパスの先で自分の名前やお気に入りのイラストを刻み付ける感覚だ。 愛着は心地よい。
ところがこのライターの場合は状況が違ってくる。 この金メッキの剥げ加減は、自分ではなく以前の所有者の愛着と繋がっているのだ。
数年前の僕だったら、このライターを見せられても、「こんな古びたライターいらないよ。どうせだったら自分で新しいZIPPOを買うよ」と言っていただろう。 でも今は違う。 「どこの誰だか知らないけれど、その人の元で数年を過ごして僕の手元にやってきた」というシチュエーションに心惹かれる。 そして僕は、少しだけ自分に対する愛着を捨て、「誰でもない人」になった気がする。 他人がかつて愛着を持っていたものを持っていると、なんだか「自分」が少し薄くなるような気がするのだ。
それは神社のお守りを肌身離さず持つことで、自分ではない何かの力を得ようとすることに似ているのかもしれない。
たとえば駅前で男が二人殴り合いの喧嘩をしていたとする。 僕はその間に割って入って喧嘩を止めようとする。 すると当然彼らは言うだろう。
「お前、誰だよ」
以前の僕いつもならそこで、たじろいでしまうだろう。 実際に以前そういうことが2回くらいあった。 全然知らない人の喧嘩を止めに入ったのだが、「お前誰だよ」と決まり文句を言われた瞬間、「事情も知らないのに大それたことをしてしまった」と、僕の心は一瞬でくじけてしまうのだ。
でも今僕のポケットには、知らない誰かによって使い古された金メッキのライターがある。 「誰でもねぇよ」 と今なら言える気がする。 ZIPPOの力によって、勢いで喧嘩になってしまったはいいが、殴りあうまでには至らず、振り上げた拳を下ろすきっかけを探していた二人に平和が訪れるのだ。
ZIPPOのライターは、男のロマンだ。
playback いちょう、ひらり。 2000.05.24