夏休みとお兄ちゃん

ここ3週間、横浜の港北ニュータウンで、マンション2棟の外壁清掃をしている。 来る日も来る日も、外壁の白いタイルを薬品で洗っている。 仕事は朝の8時から始まり、工事現場なので、鳶職の人や塗装の人たちと一緒に朝礼をする。 たまにラジオ体操をする。 ラジオ体操をすると身体が軽くなる。 ゴム手袋をしているので手首から先だけ日焼けしていない。
全体的に言って、昨日も一昨日も見分けがつかない生活をしている。 ちょっと疲れている。

現場のマンションの隣には公共のプールがある。 子供たちが水着を持って賑やかに歩いている。 今は夏休みらしい。 子供たちには、子供たちだけの世界と生活がある。 僕はその雰囲気を数年振りに垣間見る。 蝉の声が日増しに濃く大きくなる。 子供たちの肌も日増しに黒くなっていく。

6階の足場の上から、下の道を見ていると、子供が三人歩いていた。 そのうちの二人は兄弟のようだった。 弟らしき子供が、お兄ちゃんの顔を覗き込む仕草を見て、何となくそう思った。 お兄ちゃんは頼りがいがあるように見えた。 仲のいい兄弟に見えた。 僕は自分の小学生の頃を思い出した。 一歳下の弟がいて、小学校三年生くらいまでは、よく一緒に遊んでいた。 僕は自分が、いいお兄ちゃんだったかどうか、思い出そうとした。 でもうまく思い出せなかった。 ザリガニを取っていることと、近所の友達とメンコをしていることと、夕暮れの公園でみんなと軟式テニスボールを使ったゲームをしていて、弟が懸命に走っているところを思い出した。 子供には子供だけの世界がある。 僕はいいお兄ちゃんだったのだろうか?

playback  いちょう、ひらり。 2000.08.06

ナポリタンとどんぐり

仕事帰り、商店街を歩いていると、肉屋がお惣菜を売っているのを見つけた。

鶏の唐揚げや、ハムカツに混じって、何故かナポリタンスパゲッティーが売られていた。 傷だらけの銀色のトレーに盛られ、100g単位で売られるナポリタンは、全体的に焦げていて、冷めて固くなっているような気配で、あまりおいしそうには見えなかった。 僕は少しナポリタンを哀れんだ。 僕はナポリタンが好きなのだ。 ケチャップはデルモンテなのだ。

ナポリタンスパゲッティー。 『パスタ』という概念が現れてから、ナポリタンの地位は著しく低下してしまった。 「ナポリタンなんてスパゲッティーじゃない」と言い切る人まで現れた。 そんな僕も昨年はペペロンチーノばかり食べていて、「アルデンテより少し硬めが好きだな」なんて言っていた。 ああ。僕は謝らなければいけないのかもしれない。 少し離れ離れになっただけで、君のことを忘れていたなんて。
そういえば随分長い間、僕はナポリタンを食べていない気がする。 見かけることさえなくなった。 ナポリタンはどうしているのだろう? 今でも細々と喫茶店のメニューの中で生きているうのだろうか。 「ミートスパゲッティー」と仲良く並んでいるのだろうか。

小学生の時、日曜日に父親の買い物によく付いて行った。 行き先はホームセンターと決まっていて、父親はそこで、ホースや車の芳香剤や自転車のパンクを直す為のゴムやモンキーレンチや包丁磨ぎ器なんかを買っていた。 僕はなんとなく、目覚し時計が何十個も並んだおぞましい光景を眺めたり、名刺サイズのペラペラの電卓のボタンを押してその感触を確かめたり、いろいろな形の包丁が並んでいるのを見たりして時間を潰していた気がする。 そんな買い物の帰りに、時々「どんぐり」に寄ることがあって、僕はそれがとても楽しみだった。

「どんぐり」とは駅の近くにある喫茶店で、うちの家族がよく行っていた店だ。 僕がとても小さな頃から通っているらしく、その店に行くと僕はよく、「あらぁ、大きくなったわねぇ」と女主人に言われた。 僕はたくさんの人たちから言われる、この「とりあえず挨拶代わり的な」セリフを聞き飽きていたので、「先月も来たよ」と訂正して、大人達の理解不能な失笑を買ったりしていた。

どんぐりには食事のメニューがたくさんあって、ハンバーグやオムライスやホットケーキやクリームソーダやラーメンなんかを食べた記憶があるのだけれど、なんと言っても一番美味しかったのはナポリタンスパゲッティーだった。
その店のナポリタンは、熱した鉄板に溶き卵が敷いてあって、その上にスパゲッティーが乗っていた。 とろとろの卵とケチャップ味のスパゲッティーの相性は絶妙で、僕は長い間、ナポリタンとはそういうものだと思っていたのだが、東京に出てから、実は鉄板と卵は無くてもいいものだと知った時は結構落ち込んだ気がする。 とにかく僕は、「どんぐり」のナポリタンが好きなのだ。

以前『ニュースステーション』で久米宏が『最後の晩餐』というタイトルの、「明日死ぬと言われたら何を食べたいか?」とその日のゲストに尋ねるという、趣旨のよく分からないコーナーをしていた。 ゲストたちは、「こういう風に調理したフォアグラ」とか、「どこそこの店の蕎麦」とか、かなり限定された答えをしていたのだが、僕は自分にとっての『最後の晩餐』は何なのか分からず、「ううむ。大人になればいつか、ものすごく美味しいものに出会って、死ぬ前にこれが食べたいと言いきれるものなのだろう」と思っていた。

でも今日、肉屋の前で売られたナポリタンをチラッと眺めた後ふと、もしかしたら僕の「最後の晩餐」は、「どんぐり」のナポリタンスパゲッティーなのかもしれない。と思った。 死ぬ直前、僕の人生が走馬灯のように頭の中を駆け巡り、「ああ、僕の幼少時代は幸せだった」と思うと同時に、鉄板の上に乗ったナポリタンが目の前に現れるような気がする。 そういうのもなんだかいいな。

「そうか。ナポリタンだったのか。」と、僕は大発見の喜びを噛み締めて、少しにやけながら、薄明の中を家へと向かう最後の坂を登った。

playback  いちょう、ひらり。 2000.07.28