立春

今日は「立春」だったらしい。「暦の上ではもう春・・・」というあれですか?(違うかな?)

今日は立春であったうえに2月4日だった。 別に2月4日に深い思い入れがあるわけではない けど、ただなんとなく、2月4日に「立春」という素晴らしい名前があることを、嬉しく思った。

はっきり言って2月4日なんてありふれている。 なんのとりえも無い日だ。 3日経ったら2月2日と見分けがつかなくなる。 でも、そんな「ただの平凡な一日」に、名前があることを、嬉しく思って、これを読んでいるあなたに、それをこっそり伝えたくなったんです。

 

HP上で日記を書き始めて今日が五日目です。 五日目で悩み始めたのは、文体です。 昨日までの日記は、「〜である」調で、なんだか疲れてしまいました。 肩の上で誰か寝ているんじゃないかと思うほどに。 普段の僕はもっと「なよなよ」していて、メールや手紙では「ですます調」なのに、なんでこんなに力が入った文体なのでしょう? と考えてみたら、いっぱい答えらしきものが見つかりました。

理由の一つは、卒論のせいです。 硬い内容の文章を原稿用紙何十枚分も書いていたから、それが普段の文体にまでうつってしまったんでしょう。 二つ目の理由は、「不特定多数」の人々が相手なので、ちょっと緊張しているからでしょう。 自分だけが読む日記とも、特定の相手だけが読む手紙とも違う、この「Web日記」というものに、まだ慣れていないのかもしれません。 三つ目の理由は、ただ最近いらいらしていたからです。 四つ目の理由は、最近、生き方を換えたからです。

 

最近、もうちょっと強くならなきゃなぁ、と、どうやら僕は思っているようです。 それは、自分が強くなりたいと思っているわけじゃなくて、周囲の状況が僕に「強くなれと」要求してきます。 知らず知らずのうちに、自分のことを、「オレ」と無意識に呼ぶことが多くなってきました。 なんだか悲しいことです。 23年間、僕は自分のことを「オレ」と呼ぶことを頑なに拒否してきたのに。

23歳まで自分のことを「僕」と呼びつづけるのは、そんな生き方をするのは、結構難しいことです。  自分のことを「オレ」と呼ぶか「僕」と呼ぶかは、一つの生き方を示している、と言っては言い過ぎでしょうか。 自分のことを「オレ」と呼んだ直後、僕はなんだか自分のことを強がって見せているようで、少し悲しくなります。

まあ人それぞれですね。 今日は「ですます調」でお送りしました。

playback  いちょう、ひらり。 2000.02.04

 

ペペロンチーノ

今日の夕飯は、おいしいペペロンチーノだった。 「おいしい」というのがポイントで、今年度は週に4,5回はペペロンチーノを作ったけど、自分で「これはうまい!!」というペペロンチーノができたのは、5回に1回くらいだった。

今年度はペペロンチーノを作りつづけていた。 夏の盛りはさすがに、素麺や冷やしたぬきうどんにレギュラーの座を奪われたこともあったが、1週間毎日ペペロンチーノを食べつづけた週も何度かあった。 ニンニクと唐辛子をオリーブオイルで熱している時の、あのワクワク感はなんなんだろうか。 僕とペペロンチーノっていったい・・・。

きっかけは、去年の4月、急に引越しをしなければいけなくて、食費を抑えなければならなかったからだ。ペペロンチーノの材料費は、べらぼうに安い。 ちょっと大きなスーパーに行けば、「ママ・スパゲッティー」は、400グラム150円くらいで売っている。120グラムぐらい使えば結構な量なので、あとは唐辛子とニンニクだけだ。全部合わせても一食にかかるのは170円くらいだろうか。 しかもおいしい。 飽きない。 そのシンプルさが逆に飽きない理由なのだろう。 もしかしたら前世がイタリア人だったのかもしれないが。

ペペロンチーノの味の決め手は、麺の茹で加減と、塩の量、唐辛子の辛さ具合だ。 どれも大事だが、実は塩加減が一番難しい。 これが僕が10ヶ月作りつづけて学んだことだ。 塩の量で、麺自体の味、小麦粉の甘さが引き立つかどうかが決まってくる。 コーヒーの味が、淹れる時のお湯の温度や時間で毎回変わるように、ペペロンチーノの味も毎回違ってくるのである。

問題は一つ。 僕が自分で作った以外のペペロンチーノを、食べたことが無いことだろうか。 でもおいしいんだからしょうがない。 中毒なんだからしょうがない。。。

playback  いちょう、ひらり。 2000.02.03